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話はちょっと戻るが、就学に悩んでいる最中の9月に、幼稚園の連絡帳に、先生がこんなことが書いてきた。 ◇鉄棒のまえまわりが1人でできて、がんばり表に1つシールがふえました。「大志くんができた!」ということが周りの子の励みになり、負けちゃいられないと、次々2〜3人の子ができて、鉄棒の周りは拍手だらけでした。◇ できないと思っていた大志ができたら、周りの子どもたちもがんばった、という話だ。これは“共に生きる”というか、共に育つ“共育”だと思う。大志が一緒にいることが、他の子どもたちにとっても成長のエネルギーになるということだ。 連絡帳のその数日前のママの文章で、私は養護学校支持に傾き、ママは特殊学級支持で、意見がわかれていたことが書いてあった。 当時、私が養護学校に傾いていたのは、幼稚園の先生方と一緒に、就学先のことで養護学校に相談に行ったとき、「コミュニケーションができるようになるためには、まず人とコミュニケーションをとりたいという気持ちを育てる必要がある」と、そのときの養護学校の先生がおっしゃったことによるものだった。 普通学級にはそういう考え方はないだろうし、特殊学級でも定かでない。 そういう意味では、大志が最も苦手としている部分についての考え方を持っている先生が養護学校にはいる、ということからだった。 従って、大志の成長だけを考えるなら、障害児教育のための特別の場が必要なのだ。しかし、障害のない子どもたちが大志と過ごすことで、成長していく部分もあるのだ。そして、それが当たり前の生活の中で、障害を持つ人への理解を促していくことにもなる。 街で障害者を見かけるとかまえてしまうのはなぜ? 障害者と接した経験がないからだ。私自身もそうである。大志との出会いがなければ、障害者問題は人ごとだと思っていた。 冒頭の鉄棒の記述の返事に、私は「障害児を特殊学級や養護学校に入れる制度というのは、健常児にとって大きな損失を与えていると思います」と書いた。 |
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